感謝の気持ちを忘れずにがんばりなさいよ――
この言葉は大学時代、帰省したぼくに祖母がくれた手紙の一節です。手紙といっても、チラシの切れ端をメモ代わりにして、その上に走り書きをしたようなものです。それでもぼくはそれ以来、財布の中にいつもその紙切れを忍ばせるようになりました。
そもそも「いまのような生き方をしよう!」と決心したのは、いつだったでしょうか...。
ぼくの記憶の始まりは3歳のとき。保育園の一室で、母と並んで正座しているところからスタートしました。ぼくたちの正面には、机をはさんで保育園の先生が2人並んで座っています。2階にあるその部屋にはカーテンが敷かれ、太陽の光がうっすらと差し込む中、園児たちはすやすやとお昼寝中。確か、土曜日の午後だったと記憶しています。
最初の記憶がこれほど鮮明なのは、その数ヶ月前の両親の離婚が影響していると勝手に想像しています。この保育園を母と訪れたのも、離婚した母がぼくを引き取り、実家近くのアパートに住まいを設けて仕事に出るためでした。離婚前のぼくの苗字はいまの"木村"ではなかったのですが、それ以前のことはまったく覚えていないのです。何だかできすぎた話ですが、幼いながらにきっと何かを感じ取っていたのだと思っています。
というわけで、記憶の始まった3歳のときから、ぼくは母子家庭&一人っ子の環境で育ちました。ぼくが保育園~小学校時代を過ごした1980年代は、いわゆる「よい学校=よい就職先(大企業)=豊かになれる」という方程式が成立した最後の時代だったかもしれません。
一方、「片親の子ども」といえば、まだクラスに1人か2人の時代でもありました。野球少年だったぼくのキャッチボール相手がいつも"壁"だったことは、自分がマイノリティであることを自覚するには十分だったかもしれません。そのせいか、幼いころはずっと「豊かになりたい」と考えていたような気がします。
そして90年代に入るとバブルが崩壊し、終身雇用や年功序列といった日本型経営システムは突然終わりを告げました。いわゆる「失われた10年」の到来です。この何ともいえない閉塞感が漂う時代に、ぼくは多感な思春期である中学校~大学時代を過ごすこととなりました。
幸い、母が元気だったこともあり、ぼくは1年間の浪人生活を経て、母を名古屋に残して県外の大学まで行かせてもらいました。当然仕送りはほとんどありませんでしたが、この大学時代にいまの自分を支える"自立心"や"反骨精神"を養うことができたような気がしています。
そして大学を卒業し、晴れて銀行員として母の元に戻ることになって、親戚や友人たちはみな「よかったね!」と祝福してくれました。ぼく自身も「これでよかったんだ」と当時は思い込んでいました。
...でも、「これでよい」という状態は、いつだって存在しないのかもしれません。
ぼくは子どものころからあれほど憧れていた「よい就職先(=銀行)」を手放し、自らの力でメシを食っていく道を、自らの意志で選びました。母こそ何も言いませんでしたが、当時のパートナーや大学時代の友人からは退職を留まるよう何度も迫られました...。
そして月日は流れ...、記憶が始まった年齢×10となったぼくは、フリーランスとして独立し、生計を立てるようになりました。また、同年には結婚しました。もちろんいまも山あり谷ありですが、こうして振り返ってみると、「豊かになりたい」という幼少期の想いは、少しずつ形になっているのかもしれません。本当にありがたいことです。
ただ、子どものころと違うのは、「豊かになる」という言葉の主語が、"自分ひとりが"から"地域全体が"に広がったことです。それによって、「NPOで働く」という選択肢に気がつき、いまの仕事が天職と思えるようになりました。また、同じ想いを持ったみなさまからのご支援を実感できたからこそ、独立することができたと思っています。
「いまの自分があるのは、これまで出会ったみなさまのおかげ」
「お世話になったみなさまに、いまの自分をお伝えしよう」
そんな原点に立ち返って、本サイトは企画されました。
このWebサイトは、母から生まれてこれまで出会ったすべてのみなさまへの感謝の気持ちを忘れないための、木村真樹の個人サイトです。
2009年1月1日
木村真樹